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資料提供:実業之日本社
瓜生卓三作「飯山のスキー製作のはじまり」より
小賀坂の家は寺院下の愛宕町にある。佛具街のただなかだが、家業は仏壇とは関係がない。孫左衛門、孫兵衛、善兵衛と続く代々の家具職である。名人肌の家系で、作事方として城主の信任が厚かった。濱太郎は善兵衛の息子である。昭和23年、八十八歳で没した。明治を迎えたときには十四、五歳、幼少から父親に教えられ、なんの疑いもなく家具職になった。城がなくなって、彼は公共事業団に備品を納めた。一方では腕の見せ場のために、高級品の製作にも余念がなかった。明治中期から末期にかけて、家具づくりの名人として、濱太郎の名は次第にあがっていった。ことに飯山中学の佐々木校長は濱太郎に目をかけていた。彼は生(き)一本の職人で、採算を度外視しても、いいものをつくるという風であった。中学に納めた演壇は三十余年、毛根ほどの狂いも見せなかったという。
そして明治45年、その校長からスキー作りを命令されて、濱太郎の運命は大きく開いた。しかし、いかに濱太郎が木工の名人とはいえ、はじめてみるスキーである。しかも短時間に40台もつくれ、という。大変なことになった、と思ったに違いない。翌日から彼は作業所に入りこんで、スキーと取り組んだ。市川(※1:市川達譲氏)がつきっきりで指導した。彼は高田で三間や山善のスキーづくりをつぶさに見学してきた。
見本とした市川のスキーは、ケヤキの柾目にリリエンフェルトの高級品である。高価なうえに、製作過程もやっかいだし、学校の予算もかぎりがある。生徒用には簡便廉価(かんべんれんか)なものをつくらなければならない。濱太郎は市川と相談して、とりあえず、松材を使うことになった。高田でも安価なスキーは松やクルミである。問題のベンドづけは、高田の方法をまねた。湯気でたわめ、壁に打ったサンにはさんで押し曲げる。松の生木なので、ケヤキに比べれば、曲げやすかった。
金具は真田ヒモでゆわえる山口式。バッケンは知り合いに丸山常造という鍛冶屋につくらせた。しかし、40台のスキーを揃えるのには並大抵ではない。できたものから3台、5台と納めていった。40台が揃うには幾日かかったであろうか。
市川が生徒全員を集めて城山で正式授業をはじめたのは、明治45年2月初旬以降となろう。
とにもかくにも小賀坂は、飯山メーカーの第1号となった。こんなときに、高田連隊のスキー隊が乗りこんできた。レルヒ直伝の高橋亮中尉を指揮官に将校下士などの30名、田口(妙高高原)から斑尾山を越えて飯山に入り、裏山で妙技を披露した。飯山の若者たちには、極めてセンセーショナルな出来事であった。彼らの間には、たちまちスキー熱が盛り上がった。
スキーの需要は急増した。高田流のベンドづけはどうにもまどろこしい。一度に何台かまとめてつくる方法はないか、と濱太郎は日夜考えた。苦心の末、彼が編み出した方法を、私は息女の中込トモ刀自(とじ)から聞くことができた。濱太郎の六女で、明治35年生まれ、父親が最初にスキーをつくったときは十歳だったことになる。濱太郎は昭和23年2月27日、八十八歳の天寿を全うしたが、家庭的には不幸も多かった。二度の連れ合いに先立たれ、三男六女に恵まれながら、長男は早逝し、次男を戦争で失った。三男の廣治氏が現社長、女は六女のうち存命なのはトモさん一人である。私を妙専寺に案内してくれたのは、戦死した次男重治氏の子息である。トモさんは廣治氏より十三歳年上である。それだけに古い話も知っている。私が行くというので、小賀坂の社長室で待っていてくれた。細面の静かなおばあさんである。か細い声だが、初期の製作工程を熱心に語られた。女がまたげば砥石が割れ、刃物の刃がこぼれる、という濱太郎である。職場は神聖で女人禁制、猫の手も借りたくても女は入れない。母親だけが例外であった。トモさんはおそるおそる仕事場を垣間見、母親の話を聞いて製作の過程を知った、という。まずカマドに水を張った大釜をかけ、薪をくべる。釜の上に大きなセイロをのせる。型どおりに曳いたスキー10台を、そっくりセイロに突っ込んで、4~5時間も蒸しとおす。スキーが入るのだからセイロは2メートルあまり、釜とカマドで1メートル、仕掛けは3メートルもの高さになる。セイロの外側には12段の梯子がかかっていた。蒸し上がると、今度はベンドづけである。濱太郎は大ダライの曲線に目をつけた。湾曲の仕方がいかにもスキーベンドに似ている。彼はタライの外側に湯気でたわめたスキーの先端を大ネジで止めて放置した。タライの外側はスキーだらけである。先端は小気味よく曲がってくれた。しかし、生木のままでは使いものにならない。雪の水気を吸えば、すぐもとに返ってしまう。彼はブリキの大箱を作らせた。その中にベンドづけした生木スキーを並べ、外部から炭火をたいて乾燥させた。一度に10台ができるので、高田方式よりも能率が上がった。仕上げにはラックニスを塗った。
大正中期になると、小賀坂スキーの名は、本場高田を凌ぐほどになった。昭和天皇が皇太子時代には、濱太郎は宮内省の命を受けて極上のスキーをつくって献上した。濱太郎には一生一代の栄誉であった。
北海道に良質の木材を求めての極地樺太行を聞き、知人が濱太郎に贈った歌
大正9年には、青森の大湊(現在のむつ市)要港部から150台という大量の注文があった。ケヤキの良材にリリエンフェルト式締め具の高級品である。破格な発注であり大仕事であった。うれしい悲鳴だったに違いない。彼はさらに新型の鉄器を考案した。円筒形の鉄箱の下部にロストルを置き、その下で炭火をたく。上部にベンド型に湾曲したふたを載せる。このふたにベンドを置き、要所を止めて、反対側から重りをつけて引っ張る。鉄器考案の時代ははっきりしないが、大正中期であろうか。鉄器は戦後30年ぐらいまで使われていた、というからずいぶん長い生命があった。用具発達史の上で、重要なものだが、惜しいことに今は1台も残っていない。飯山には濱太郎をはじめとして伊村栄蔵など、家具、建具づくりの名人が多い。スキーの製作は数年ならずして本家の高田に追いついた。追い越した、といってもいい。ただ金具のほうは思うにまかせなかった。山口式、これからヒントを得た“わたし”式という太い針金を靴型に曲げたもの、さらに進んでリリエンフェルトの発案をとった飯山式と、研究に余念がなかったが、本格的なリリエンフェルトにはどうもうまくいかなかった。高級品は高田から持ち込まれた。材は飯山、金具は高田ということになるかもしれない。
濱太郎はまた飯山中学の先生たちに多くの示唆(しさ)を与えられ、指導もされた。市川達譲、さらに彼の後のスキー部長となった藤沢暲(しょう)三など、中学にはスキーのブレーンに事欠かなかった。ことに地理教師だった藤沢は飯山スキーには忘れられない人物である。選手もメーカーも、彼の恩恵に浴したものは数知れない。野沢の富井宣威(のぶたけ)や佐藤正男らを連れて小樽の第1回全日本選手権(大正12年)に乗り込んだ。彼の地でイタヤ材のスキーを見、帰校してすぐに小賀坂を呼び、北海道イタヤでスキーをつくる事を教えた。そんな事情で道産のイタヤを持ち込んだのは小賀坂が一番古い。濱太郎自身も材の研究にはきわめて熱心で、ケヤキや松ばかりではなく、ブナ、桜、樺(かば)、タモ、ナラ、クルミ、エノキ、のちにはアッシュ、ヒッコリーなど、さまざまなスキーを試作した。樺太を知る市川から、彼の地の優秀な材木のことを聞いて、樺太にまで渡った。当時樺太行きといえば、極地行にも似ていた。別れの歌までくれる人もあった。飯山中学の化学の先生から示唆されて、油びたしのスキーもつくった。水分の多い飯山の雪には、かなりの効果があったようだ。
本格的な合板スキーをつくったのもおそらく小賀坂であろう。日本の合板はランナー用スキーから始まった。ただ最初の合板製作ということになると多くの問題が残る。高橋昂(あがる)さん(昭和3年サンモリッツ五輪大会代表)は、十勝の郵便夫がはいたという合板スキーを所持しておられる。昭和3年に買い取ったというから、製作はさらに以前にさかのぼるだろう。「東京アルプス商会」のマークが入っているが、どんなメーカーか今となっては分からない。もっとも合板といっても、上部が桜、下が竹の二枚張りで、浅い二本の溝(みぞ)が掘られている。長さは180cm。小賀坂のものはもっと本格的であった。昭和7年、父親の指導で廣治氏が作ったというスキーを見せてもらった。五枚張りの見事なものであった。上からヒッコリー、檜(ひのき)、桜、檜、ヒッコリーと重ねられている。誰もスキー材に使わなかった檜を二枚はさんだところが、新しい考案である。檜は単独では使えないが、合板の一部にすれば軽く丈夫で、ランナー・スキーには絶好だった、という。昭和14~15年ごろでも、和製ランナー用の多くは三枚張り、上下の薄いヒッコリーの間にイタヤなどをはさんだ粗末なもので、ベニヤの俗称で呼ばれていた。昭和7年の五枚張りは画期的なものといえる。そのころ廣治氏はランナーとして活躍していた。スキーはむろん手製の五枚張りであった。新潟の名ランナー「増田真一」や「松橋朝一」などは、高田を通り越して、他県の小賀坂にスキーを注文してきた。小賀坂の信用度がうかがえる。濱太郎はきわめて実直、几帳面な人で、とくに神仏の信仰が厚かった。なんとか世のため、人のためになりたい、と考えた。戦後、父と兄を相次いで失い、にわかに柱となった廣治氏は、飯山郊外の山中に木材を買いにいった。刺(し)を通ずると、山師は、「珍しい名前だ。濱さんの子かい?濱さんの子なら間違いない。いいものを好きなだけ持っていけ。金は、ある時払いの催促なしだ」といってくれた。「親のありがた味をしみじみと感じました」と述懐する。
トモさんはさまざまな思い出の糸をたぐっていく。彼女自身、少女の頃はスキーのチャンピオンだった。当時の競争は、100 mほどの起伏地を頭に小豆(あずき)の袋をのせて滑り、登って、袋を落とさずにゴールした者が勝つ。ゴム長にスキーをかついで、「やっぱりスキー屋の娘だといわれました」と笑う。トモさんの話では、父親は高田茶屋の御用商人とよく文通していた、という。茶町の名は今はないが、三間や山善の住居のあったところである。初期のころは、やはり高田から知恵を借りていたのであろう。
「正直で責任感の強い人でした。人との約束はどんなに無理をしてでも果たしました。一本気の職人で、無口で厳しい人でしたが、口やかましいというのではなく、私たちを心からかわいがってくれました」とトモさんは小さくしゃくりあげた。
25年前に他界し、なお七十になった娘の涙を誘う濱太郎翁である。おやじ冥利につきようというもの。廣治は一本気で、凝り性で、父親そっくりです。廣治氏は昨年ひとり息子を失うという不幸に合った。長く目の前が真っ暗でしたと述懐するが、最古のスキーメーカーとして、濱太郎の築いた信用のもとに、小賀坂を立派に守り立てていくであろう。
※1 市川達譲氏
当時、飯山市内にある浄土真宗の末寺で妙専寺の住職をしていた。
昔の一年志願(学校出の荘丁が保釈金を積んで入営し、十ヶ月で将校になる制度)の予備少尉、樺太占領に出兵して中尉に昇進し、飯山中学(現飯山北高校)で、兵式体操の教師をしていた。僧侶、軍人、教師と一人三役の彼は、高田師範の将校と同じに、若者たちの冬の不活発な生活をはがゆく思っていた。そんなとき、高田のスキーを聞いた。なんとか飯山にもスキーを持ち込みたい。翌シーズン、すなわち明治45年1月15日から高田師団主催の甲、乙2種の講習会が開かれた。市川は勇躍して申し込んだ。甲種は現役軍人で3週間、乙種は民間人で10日間、教師の市川は乙種。66名が参加したが、長野県からは彼ひとりであった。講習会場は高田金谷山で、訓練は厳しかった。民間人の多くは落後したが、市川は軍隊精神でがんばり通し、講習生中最優秀の成績で課程を修了した。25日帰宅に際して、2台のスキーを持ち帰った。1台は学校用、1台は自分用であった。ケヤキ材、リリエンフェルト、三間の最高級品だった、と聞くが、現存していない。翌朝登校し、彼は石段下でスキーをつけ、石段を滑走し愛宕町にで、さらに城山を登り、坂を下って学校に行った。飯山のスキーの発祥、1912年(明治45年)1月26日と断定してもいいだろう。彼は当時の校長の佐々木哲哉(てっさい)に、生徒にスキーをさせることを進言した。校長はもとより話に聞くスキーに関心が強かった。市川に高田行きをすすめたほどの人であり、双手(もろて)をあげて賛成した。ただちに学校出入りの家具商小賀坂濱太郎を呼んで40台のスキーをつくることを命じた。
1936年(昭和11年)5月19日(火)付 東京新聞
№21,481号 「スポーツそのころ」より 堀内文次郎中将談
われわれが雪の高田でテオドール・フォン・レルヒ少佐から正式にオーストリアのスキー術を伝えられたのは明治44年のことだから、ざっと26年になる。レルヒさんは、当時大使館付武官としてわが国に滞在中だったが、何でも「スキー」と称する雪の上を走る履物を上手にコナす大家だとのうわさであった。アルプスを中にしてイタリアと対峙しているオーストリアのスキー連隊で鍛えた腕前“いや足なみかな”は果たしてどんなものかと思ったが、いくらスキーが便利なものであっても、日本だって雪国がない訳じゃないし、きっとカンジキで雪中を歩くのと大差はないものだろう。ひょっとしたら却(かえ)って日本の方に好い道具があるのじゃないかとさえ、われわれは考えていた。時の高田師団長故長岡外史中将の理解も手伝って、レルヒさんが高田58連隊に着任する前、全国から雪具という雪具を全部集め、これでスキーなるものと対抗し、競争してみようと考えた。その時集めた雪具は幾つあったと思う?実に17種類もあったよ。まずこれだけあれば大丈夫、スキーはどれほどいいものか知らんが、何も外国のものを持つまでもないと、タカをくくっているのだから滑稽(こっけい)な次第さ。北海道から来た道具のうちに名は何といったか忘れてしまったが、2尺4方くらいの板の裏にアザラシの皮を貼り付けた下駄のようなものもあったのには感服したが、われわれはこれらの優秀な雪具を使って、日本男児の意気を示さんものと、ひたすらレルヒさんの着任を待っていた。
さていよいよ高田に到着して持って来たスキーというものを見ると、これには驚いたネ。先端が尖って曲がっている板ッペラのようなものなのだ。初めて見るわれわれの驚きは相当なものだったが、後で聞けば、その以前スウェーデン駐箚(ちゅうさつ)公使杉村虎一氏から参考にと、スウェーデンの軍隊用スキー2組と説明の書物を送って来てあったそうだが、使用法も何も判らないので、そのまま陸軍省の倉庫に放り込んで置いたのだそうな、これが判っていたら、せめてスキーのどんなものかぐらいは知っておくことが出来たであろうに。それは兎に角、確か1月5日にレルヒさんが高田に着き、一両日後スキーをはいて雪の上を滑ってみせるというので、長岡師団長をはじめ、連隊長の我輩も将校一同とともに金谷山の麓に出かけて行った。前にも話したようにスキーとは何程の事やあらんと、内心軽蔑していたのである。いよいよスキーをはいて300~400mの山上に登り、やがて滑り降りて来た。その早いこと、あっという間にわれわれのいる前まで滑って来ちゃった。今でいう直滑降だナ、そうだろう。タカが300~400mの距離なんだからレルヒさんにすれば何でもないことなんだが、吃驚(きっきょう)したのは、われわれだ、もう呆気にとられてボンヤリしてしまった。カンジキや藁靴(わらぐつ)の話などおくびにも出せなくなってしまった。
なるほどスキーというものは非常に威力のあるもので、軍事的にみても十分価値あるものだと判って、いよいよ本格的に研究することになり、レルヒさんの持って来た物を手本に砲兵工廠(こうしょう)へ頼んで二組作ってもらった。オーストリア式のいわゆるリリエンフェルト式締具のついたもので、使用する杖は今とちがって一本だ。金具にはバネがついていて靴がピタリはまり、頑丈な上に前方回転や屈伸が自由で「折敷」(膝射)でも「伏せ」(伏射)でも何でもよく出来る。この點(てん)になると、その後に輸入されたノルウェーのフィットフェルト式締具とは違い、実に具合がいい。杖は長さ2mくらいの先端に金具をつけた竹を使った。この竹杖を50cmも雪の中にさせば、どんな傾斜でも体を支えることが出来た。こんな訳で、レルヒさんから正式にスキーの教えを受けることになり、我輩は各中隊から大隊、能力の優れた中、少尉12人を選んで、講習班を作った。そして我輩も同時に直伝を受けようとその班に加わったが、なにせ当時45歳の初手習いだから、楽な仕事じゃない。二、三ヶ月猛練習をやってから体重を測ってみたら、三貫目近く減っていたからネ。
オーストリア・スキー術の教習は、実に厳格なものであった。ノルウェー流のスキーがスポーツとして発達して来たのに対し、オーストリアのは軍隊の山岳スキーで非常に冒険的なものだから、勢い厳格な規律の下に行なわなければならんのだろう。レルヒさんは、英、仏語も話せたから語学の達者な班員の鶴見宣信大尉(現大佐、全日本スキー連盟評議員)が通訳でスキーの履き方から教わったが、立てばすぐ転ぶといった有様でチョロチョロ滑るまでには二週間ぐらいかかった。レルヒさんは約1年間高田にいて旭川連隊に転じたが、その直前でまず満點といってもいいくらいに上達した者は、鶴見大尉と高橋(亮)中隊長だけだった。相当練習を積んだ後、いよいよ冒険的登山をやって実地訓練を行なうべく、高田から南葉山を越えて妙高山麓へスキー行軍を行なうことになった。たしか明治44年の2月、レルヒさんがリーダーで鶴見大尉以下講習将校12名及び我輩の総勢15名、妙高をめがけて出立した。その日幸か不幸か、途中で猛烈な大吹雪に出くわし、いろいろな危険にも遭ったが、この山野横断は今思い出しても実に壮快で
スキーの実用上、立派な収穫を挙げたものと信じている。レルヒさんがわが国に初めて正式のスキー術を伝えた功績己れを空しうしての熱心な指導は永久に忘れることが出来ない。今日なお故国の首都ウィーンに顕在し、陸軍少将の栄位にあって活動していると聞くのはこの上もない喜びである。
堀内文次郎陸軍中将
明治18年 陸士、22年 陸大を卒業、日露戦役には大本営付高級副官、日独戦役には旅団長とし
て、青島陥落の事に従った。
現に支那事変傷病軍人後援会長、帝国軍人後援会顧問、全日本アマチュア拳闘連盟名誉会長など
の職に在る。
明治44年1月12日、レルヒ少佐より初めてオーストリアスキー術を教授された際、高田師団の連
隊長をしていた。当時45歳で若手将校に交じってスキー術を習った。
1975年(昭和50年)9月掲載記事 長野経営者協会臨時時局情報
第37号のインタビューより 小賀坂廣治翁談
私の経営信条は、「経営」という言葉を使うほどではないが、「我社はスキーをつくるスキーメーカーである。メーカーとは原材料という物質を組合わせて一つの使用目的のあるものを作り出すことである」という根本的な考え方で、これは流通経路に在る人達との大きな違いであり、ここにこそメーカーと称せられる意義があると思っていますし、また端的に言うならば、職人の生命の息吹きを吹き込むものが我々メーカーに与えられた使命と考えています。つまり、「売ることを考えるより、作ることに全力投球せよ」というのが私の一貫した経営信条です。
世の中というものは、自己一人が存在するのではなくて、やはり自分たちを可愛がって下さる消費者達の支持なくしてどんな企業も存続は不可能なんだという考え方でやっているわけでして、私共の“営業方針”とは次のものです。
所詮、メーカーとは販売の手段方法が問題なのではなく、物を作ってそこに価値を期するのがメーカーであり、お客の求めるものを作らなければなりませんし、『スキーは中味がわからないものである』から、外側のみたところよりも内側がいかに良心的によい資材を使って価値あるものを作るかということがメーカーの責任であると考えています。
スキーというものは、他のレジャー用品、スポーツ用品と違って、雪という非常に変化のある、しかも日陰と日なたでは雪質も違い、朝、昼、夕方、暖かい日、寒い日などいろいろ違っている状態のデコボコな斜面を一つしかない命と体を使って、足の下につけたスキーを自分の力で操作して楽しみを求めるものですから、絶対に安全でなければなりません。従って、作る技術について絶対に自信のもてるまでに自己を鍛錬し、訓練し、そして高めていかない限り、即ち技術のレベルアップなくしては、不可能です。
「販売」というのは、自社からの出荷数がイコール販売数ではなく、小売屋さんの店
頭から最終消費者であるお客さんの手に渡ったことを販売と考えています。
ですから、我社の生産台数及び売上額というのは、「お客さんの手に何台のスキーが渡ったのか」というのがその年の販売台数になるという考え方をしているわけです。
「企業というのは潰れてはならない」という鉄則は、経営者一人だけの問題ではなく
て、生活基盤が企業に存在しているところのそこに働く従業員とその家族全部の多くの人にかかわる問題です。
とすれば、一つの企業が倒産するということは、どれだけ多くの人に不幸をもたらすかを考える時、経営者の任務は、どんなことがあっても企業を潰すことなく、どの社員にも安心して仕事に従事できる状態にすることが大事だと思います。
従業員としての在り方について常に言っていることは、「自分なら喜んで買うだろうと思うものを作れ」といっております。自分がもしお客になってスキーを買うなら、果たして自分が今自分が作っているスキーを選ぶであろうか、自分が作っているならば、その中味は一番よく知っている筈であるから、自分が喜んで買うような品物をつくりなさい、という意味なんです。大きくするとか小さくするとかという問題ではなく、この会社に居れば安全だという安心感と自分のしている仕事が世の中に企業を通じて貢献しているという誇りを従業員に持ってもらうことなのです。
1984年(昭和59年)3月10日 日本経済産業新聞
長野版掲載記事より 小賀坂廣治翁のインタビュー
「これからは知名度が高い海外有名ブランドがファッション的に売れるのではなく、機能性を重視した“本物”のスキー板が売れる時代」と小賀坂スキーの小賀坂廣治社長は言い切る。
スキーを楽しむ人が増え、数メーカーのスキーをはき比べる時代の到来とともに「わが社が創業以来追求してきた“本物”のスキーづくりが真価を発揮する」と小賀坂社長は自信を持って語る。
他メーカーが相次いで量販体制を敷いた高成長期にも、品質重視で急激な拡大を避けてきた同社のいき方が、「回り道のようで結局は、先頭を切って滑り抜けるための最も先端的ないき方になってきた」と胸を張る。
小賀坂スキーは明治末期に長野県飯山市で創業、昭和34年に長野市へ本社、工場と
も移転した。創業以来70数年間長野県下でスキー板を製造している。長野県は昔から新潟、北海道とともにスキー板の三大産地と言われてきたが、最近は新潟、北海道とが衰退傾向にあり、スキー板のトップ生産県として年々市場占有率(現在約3割)を高めている。小賀坂スキーはその長野県のスキー板製造業のトップランクにある。「オガサカ」ブランドは、ヤマハ(日本楽器製造)、美津濃、カザマ(カザマスキー)、西沢、スワロー(スワロースキー)とともに国産スキー板の六大ブランドを形成している。47年の関税引き下げを契機に輸入品の攻勢が強まり、慢性的な供給過剰や乱売が続き、生産縮小や転廃業が相次いだ。45年に85社あったメーカーが30社程度に減ったが、国内需要100万台に対し供給は国産100万台、輸入50万台もある。その間、六社で国内全体の約7割を生産、寡占化が進んでいる。
「ここ1、2年、消費者のスキー板購入姿勢に変化が出ている」と小賀坂社長はみてい
る。40年代後半から国内スキー市場では、海外有名ブランド品がバーゲン攻勢をかけ、消費者も「海外有名ブランドが安く買えるなら」とそれに飛びつく傾向が強まってきた。しかし、「このところ、国産品、なかでも機能性の高いスキーの見直し機運が高まっている」(小賀坂社長)そうだ。その原因は「消費者は実際にはいてみて機能面で優れたものを選別するようになったため」と分析する。スキー業界では輸入品による安売り攻勢に対抗するため、芯ん(しん)材に発砲ウレタン、プラスチックや合板などを用い、量販体制を敷いてコストダウンを図っているメーカーもある。しかし「コスト面では木材芯を使うと採算割れになる子供用スキーをはじめ全機種に厳選した木材芯を使っているし、エッジも板の伸縮に連動する特殊(ネオフレックス)エッジを使っている」と機能を重視している。
こうした昔ながらの“職人気質”による製品づくりを図る一方、「シリコンカーバイド、ケブラー繊維などをスキー板の新素材として業界で真っ先に導入したものも当社」と常に新技術にも目を向けている。「スキーをする人は年齢、技量、体力など多種多様。それぞれに最も合う製品をつくるためにも新素材の研究は欠かせない」。
「現在いまでも市場に出せる新素材が二種類ある」と時代への対応にも準備万全。ただ「すでに20近い機種を出しており新素材の製品を出すと流通段階が混乱するので、登場のタイミングを図っている」そうだ。
「スキー指導員の間に愛好者が多く、全日本基礎スキー選手権の上位入賞者の大半が当社製のスキー板を使用している」と小賀坂社長は自社製品に絶対の自信を持つ。小賀坂スキーはこの“機能性の良さ”を武器に「本物が選別される時代」の先頭を行く考えだ。