思いのままに滑れてこそ、滑る本当の楽しさが生まれる。

小賀坂スキーの歴史

小賀坂スキーについて

Location

日本スキーの発祥

レルヒ少佐(1911年)写真提供:大房英一様(神奈川県藤沢市在住)

  • オーストリアより来日したテオドール・エドレル・フォン・レルヒ少佐が、新潟県高田にて高田58連隊の青年将校スキー専修員にスキーを教授したのが、日本スキーの発祥とされている。
  • 写真:テオドール・エドレル・フォン・レルヒ少佐

この年のできごと

  • 日米通商航海条約が調印され、日本の関税自主権が回復される。
  • 普通選挙法が衆議院で可決。

1911年

Location

小賀坂スキー創業

創業者:小賀坂濱太郎創業時のマーク

  • 長野県スキーの発祥の地・飯山で創業開始し、スキーメーカーの第1号となる。飯山中学(現・飯山北高校)の校長・佐々木氏に命じられ、家具職人・小賀坂濱太郎が40台のスキーを製作し、納入する。
  • 写真:小賀坂濱太郎と当時のマーク

この年のできごと

  • 第5回夏季オリンピック・ストックホルム大会開催。日本がオリンピックに初参加。
  • 明治天皇崩御。

1912年

Location

小賀坂濱太郎

瓜生卓三作「飯山のスキー製作のはじまり」より

小賀坂の家は寺院下の愛宕町にある。佛具街のただなかだが、家業は仏壇とは関係がない。孫左衛門、孫兵衛、善兵衛と続く代々の家具職である。名人肌の家系で、作事方として城主の信任が厚かった。濱太郎は善兵衛の息子である。昭和23年、八十八歳で没した。明治を迎えたときには十四、五歳、幼少から父親に教えられ、なんの疑いもなく家具職になった…

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1912年

Location

献上スキー

「賜宮内省御買与 小賀坂製造所」の焼き印

  • 宮内省の命を受け、極上のスキーを献上する。
  • 写真:献上したくるみ材の単板スキーと焼き印

宮内省に献上(献納)したモデル。材質/くるみ材(単板)

この年のできごと

  • 第一次世界大戦の終結。
  • カルピス販売開始。

1919年

Location

当時のマーク

スキーの普及

  • 軍隊用スキーを製作、青森県大湊(現・むつ市)要港部へ150台納入する。
  • 写真:当時のマーク

この年のできごと

  • 第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)開催。
  • 第7回夏季オリンピック・アントワープ大会開催。

1920年

Location

当時のマーク

合板スキーの開発

  • 5枚張りの本格的な合板レース(クロスカントリー)用スキーの開発を開始する。
  • 写真:当時のマークと焼きごて

この年のできごと

  • 富士山頂に気象観測所を開設。

1932年

Location

当時のマーク(白鷹マーク)""

合板スキーの実用化

  • 日本で最初に合板スキーの研究開発に成功し、製作を開始する。先代社長・小賀坂広治がランナーとして、明治神宮冬季スキー大会等で活躍していた頃である。
  • 写真:当時のマーク

この年のできごと

  • 丹那トンネル開通。

1934年

Location

雪具を総動員しレルヒ少佐を邀撃(ようげき)

堀内文次郎中将談

1936年(昭和11年)5月19日(火)付 東京新聞  №21,481号 「スポーツそのころ」より

盲目蛇に怖ぬ度胸
われわれが雪の高田でテオドール・フォン・レルヒ少佐から正式にオーストリアのスキー術を伝えられたのは明治44年のことだから、ざっと26年になる。レルヒさんは、当時大使館付武官としてわが国に滞在中だったが、何でも「スキー」と称する雪の上を走る履物を上手にコナす大家だとのうわさであった…

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1936年

Location

本社・工場を飯山市から現在の長野市にした前後2年間採用されたマーク(1958〜1960年)

会社設立

  • 株式会社小賀坂スキー製作所(本社:飯山市)を設立する。
  • 写真:本社・工場を飯山市から現在の長野市にした前後2年間採用されたマーク(1958〜1960年)

この年のできごと

  • 巨人・長嶋茂雄選手デビュー、4打席4三振。
  • 東京タワー竣工。

1958年

Location

スキー年鑑No.27に掲載された広告

工場の移転

  • 長野市の工場誘致条例により、本社、工場を現在地(長野市栗田653番地)に移転する。
  • 写真:スキー年鑑No.27に掲載された広告

この年のできごと

  • 皇太子明仁親王(今上天皇)と正田美智子さんご成婚。

1959年

Location

小賀坂スキーロゴマーク

亀倉雄策氏デザインの現在のマークを採用する

亀倉雄策氏

東京オリンピック・札幌オリンピックの公式イメージポスターを制作、さらにNIKON・NTT・住友銀行・プリンスホテルなど有名企業マークを制作したグラフィックデザイナー。
1960年、野沢温泉の片桐匡氏が小賀坂スキーを亀倉氏に紹介し、スキーデザインと広告デザインを担当することになる。亀倉氏のデザインが好評で人気が出たため、翌年にはデザインを模倣したスキーが横行した。以後、各社が毎年デザインを変更する中で、スキーの性能は毎年改良するが、デザイン自体は極力変えない小賀坂スタイルが人気を博した。
1964年に「オガサカの白」と呼ばれたGFは、1977年にUnityと名前を変え小賀坂を代表するスキーとなるが、デザインの変更は18年で3回、K&Vは1974年登場当初のデザインのまま22年、SFは1966年から2000年まで35年間、亀倉氏が手掛けた同一デザインを採用し続けた。

1960年

Location

第1回全日本デモンストレーター選考会開催

  • 第1回全日本デモンストレーター選考会が山形県蔵王会場で開催。オガサカスキー使用選手がデモンストレーターに選考され、以降毎回選考される。
  • グラスファイバー・スキー「GF」を開発、製作し、販売する。

グラスファイバー・スキー「GF」

この年のできごと

  • 東海道新幹線開業。
  • 第18回夏季オリンピック・東京大会開催。

1964年

Location

「GF-1」を発売

  • グラスファイバー・スキー「GF-1」を開発、製作し、発売開始する。

グラスファイバー・スキー「GF-1」

この年のできごと

  • 日本の総人口一億人突破。
  • ビートルズ来日。

1966年

Location

新工場の増築

  • グラスファイバー製競技スキーを製作開始し、生産増強のため新工場を増築する。
  • 耐久性、滑走性能に優れたスチールファイバー(太さ0.08mmのピアノ線)をF.R.Pにに編み込んだ強化材を採用したSFモデルを発売開始する。

スチールファイバー・スキー「SF」

この年のできごと

  • 上越本線の新清水トンネルが開通。
  • FM東海で「JET STREAM」が放送開始。

1967年

Location

「ネオフレックス・エッジ」の採用

スチール・エッジの革命ともいわれる「ネオフレックス・エッジ」。エッジの役割は、角を鋭利な状態に保ち、快適なコントロールをするためと考えられています。ネオフレックス・エッジは、エッジに等間隔の刻みを入れて弧で連続させている構造で、滑走面に合わせてスムーズにエッジ全体が伸張される設計です。

この年のできごと

  • 長野放送をはじめ、地方民放局の開局ラッシュ。
  • アポロ11号、人類初の月面有人着陸を果たす。

1969年

Location

東京事務所を開設

  • 東京事務所を開設する。
  • SuperGFモデル「GF-S1」を開発し、発売開始する。

GF SSW

この年のできごと

  • 日本万国博覧会(大阪万博)開催。

1970年

Location

強化材グラスファイバーの普及

  • グラスファイバーを全機種に採用、製作、発売する。

1971年

Location

札幌オリンピック開催

  • 第11回冬季オリンピック札幌大会(日本)アルペン種目に、オガサカスキー使用・古川美雪(旧姓片桐)選手が出場する。

古川美雪選手使用モデル

父:片桐匡選手と古川美雪(旧姓片桐)選手

古川美雪(旧姓片桐)選手

札幌オリンピック当時、日本アルペン界を代表するオール・ラウンダーで、回転、大回転、滑降3種目に出場。父・匡氏と親子でオリンピックに出場、「親子鷹」として話題になった。

1972年

Location

ケブラー繊維使用スキーの開発

  • 世界で初めて、ケブラー繊維使用スキーの開発。
  • 札幌事務所を開設する。

世界に先駆けて採用した新素材-①ケブラー繊維(アメリカ・デュポン社)

高強度・高耐熱性で、同じ重さの鋼鉄と比べて5倍の強度を持つ繊維。
スキーの強化材として使われているファイバーグラスと比較して、引っ張り強度は約1.5倍、弾性係数は約2倍、伸び率は約1/2、重量は約1/2、の特製を持つ。
小賀坂スキーでは、F.R.Pとケブラー繊維を結合した強化材をスキーに使用した。

1973年

Location

K&V発売開始

  • ケブラー繊維採用モデル「K&V」を発売する。
    K&V
  • ショートスキー「GF160」モデルを発売する。
    GF160

1974年

Location

小賀坂スキー販売株式会社を設立

  • 第2工場を増改築し、小賀坂スキー販売株式会社(本社:長野市)を設立する

1975年

Location

私は「売ることを考える」よりも 常に「買う人の立場」に立って考えて作ってきた

小賀坂廣治翁のインタビュー

長野経営者協会臨時時局情報 第37号のインタビュー1975年(昭和50年)9月掲載記事より

1.一貫した私の経営信条(Credo)
私の経営信条は、「経営」という言葉を使うほどではないが、「我社はスキーをつくるスキーメーカーである。メーカーとは原材料という物質を組合わせて一つの使用目的の
あるものを作り出すことである」という根本的な考え方で、これは流通経路に在る人達との大きな違いであり、ここにこそメーカーと称せられる意義があると思っていますし…

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1975年

Location

小賀坂商事株式会社を設立

  • 小賀坂商事株式会社(本社:長野市)を設立する
  • 「Ultra」に変わり超ロングセラー・モデルとなった「Unity」を発売開始する。

Unity
1977年

Location

クロスカントリースキーへのグラスファイバー導入

  • グラスファイバー製クロスカントリースキーの開発、製作し、発売する。
  • 「Unity」の最高級モデル「Unity 3」を発売開始する。

Unity 3
1979年

Location

児玉修選手、ワールドカップで6位入賞

  • ワールドカップアルペンスキー、レングリース大会(西ドイツ)SL競技で、オガサカスキー使用・児玉修選手が6位入賞する。また、第13回冬季オリンピックレークプラシッド大会(米国)アルペン種目に出場する。

児玉修選手使用回転競技用モデル:SS-SL
1980年

Location

Silica(シリコンカーバイド繊維)使用スキーの販売

  • 世界で初めて、Silica(シリコンカーバイド繊維)使用スキーの開発、製作開始し、1,000台の限定販売をする。

Silica

世界に先駆けて採用した新素材-②シリコンカーバイド繊維(国産)

ダイヤモンドの弟分、あるいはダイヤモンドとシリコンの「あいのこ」的な性質を持ち、硬度、耐熱性、化学的安定性に優れる。半導体の原料として使われている。
小賀坂スキーでは、高い硬度に着目し、F.R.Pと結合した強化材をスキーに使用した。

1981年

Location

邦友グランド

財団法人邦友グランドを設立する

  • 長野県長野市に財団法人邦友グランドを設立する。

1983年

Location

サラエボオリンピック開催

  • オガサカスキー使用・児玉修選手、第14回冬季オリンピックサラエボ大会(ユーゴスラビア)アルペン種目に出場する。

児玉修選手使用競技用モデル:Triun-Z
児玉修選手

児玉修選手

回転種目の2本目で旗門不通過と判定され、失格となった。公式記録を確認することなく、日本チームの監督・コーチ陣は抗議をせずに現場を引き上げたという珍しいケースが起きた。後にVTRで確認したところ、通過していたことが確認されたが、どうしようもなかった。
この件以来、児玉選手は悲運のスラローマーと呼ばれるようになった。

1984年

Location

職人気質で本物追求 新素材も採用、先頭滑走

小賀坂廣治翁のインタビュー

日本経済産業新聞、「地場産業“明日をひらく”」1984年(昭和59年)3月10日長野版掲載記事より

「これからは知名度が高い海外有名ブランドがファッション的に売れるのではなく、機能性を重視した“本物”のスキー板が売れる時代」と小賀坂スキーの小賀坂廣治社長は言い切る。
 スキーを楽しむ人が増え、数メーカーのスキーをはき比べる時代の到来とともに「わが社が創業以来追求してきた“本物”のスキーづくりが真価を発揮する…

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1984年

Location

スノーボードへの取り組み

  • スノーボードの開発、製作開始。

1985年

Location

CHEDAR-X(アルミナ繊維)使用スキーの販売

  • CHEDAR-X(チェダーX、世界で初めてアルミナ繊維使用)を製作発売する。
    Chedar-X
  • オガサカ・スノーボード「スノーアクロス」を発売する。
    スノーアクロス

1987年

Location

高強度・高弾性の「Tグラスファイバー」を採用

  • Unityシリーズに、従来より高強度、高弾性を持つ「Tグラスファイバー」を採用する。

Unity-SE
1990年

Location

先進素材「サイファー」使用スキーの製作発売

  • 株式会社神戸製鋼所が開発した先進素材「サイファー」を世界で初めて導入した「UNITY-SV」を開発し、販売する。

Unity-SV

世界に先駆けて採用した新素材-③サイエンティフック・フェライト(サイファー)繊維 (国産・神戸製鋼所)

鉄でありながら、曲げ、ねじれに非常に強い極細金属繊維。微細で剛性があり、かつしなやかという相反する3つの要素を兼ね備えている。
この高弾性と高い伸び率を兼ね備えたサイファーとF.R.Pをコンポジットし、スキーの強化材として使用した。

1991年

Location

ジャンプスキー・競技トレーニング用スキーの製作発売

  • ジュニア用「ジャンプ・スキー(JP)」を開発し、発売する。さらに、競技トレーニング専用スキー「TR」を開発し、発売する。

、競技トレーニング専用スキー 「TR」
1992年

Location

芯材「TORQREX(トルクレックス)」使用スキーの製作発売

  • 株式会社有沢製作所が開発した芯材「TORQREX(トルクレックス)」を世界で初めて採用した「Super UNITY」を開発し、発売する。
    Super UNITY
  • FFUコアを世界で初めて採用した「UNITYC-VX」を開発し、発売する。Unity C-VX
  • オガサカスキー使用・堀米光男選手、ブライテンバング(オーストリア)ノルディック・ジュニア世界選手権で金メダル2個(30kmフリー、40kmリレー)、銅メダル1個(10kmクラシカル)を獲得する。堀米選手使用モデル:Triun ZN/C
    堀米選手使用モデル:Triun ZN/S
  • 同じく、第17回冬季オリンピックリレハンメル大会(ノルウエー)ノルディック種目に出場する。

1994年

Location

「Triple Super construction(TS)構造」を導入

  • キャップ&サンドイッチがミックスされた新構造 「Triple Super construction(TS)構造」を導入した「TS-7・TS-6」を開発、発売開始する。

TS-7
1995年

Location

カービングスキー時代の到来

  • カービング対応モデルのKeo’s(ニユー・サイドカーブ)を販売する。KEO'S
  • モノコック構造では性能に限界があるため、TWINKEEL(Cap&Sandwich)構造の特許(PAT.No.2608528)を取得し採用する。TS-7E
  • スノーボード「SCOOTER」発売開始する。
    Scooter Daylife

1996年

Location

カービングスキーの深化

  • カービング・スキー「P-FC」を開発し、テスト販売する。

1997年

Location

長野オリンピック開催

  • カービングスキー「Super Keo’s(FC、OS、OG)」を発売する。
  • Super Keo's

  • TWIKEEL構造のカービングスキー「Keo’s-Twinkeel、VII-Twinkeel」を発売する。
  • 男子クロスカントリー10kmクラシカル種目で力走する堀米光男選手オガサカスキー使用・堀米光男選手が第18回冬季オリンピック長野大会(日本)ノルディック種目に出場し、リレーで7位に入賞する。

1998年

Location

クロスカントリースキーワールドカップ日本人初入賞

  • ワールドカップ・クロスカントリーウルリッヒェン大会(スイス)10kmフリーでオガサカスキー使用・堀米光男選手が日本人初の7位入賞する。

1999年

Location

TWINKEEL構造の深化

  • TRIUN SLモデルを、TWINKEEL構造で販売開始する。
    TRIUN-S
  • FC-Xを販売開始する。
  • SA-Nスキーを(財)長野県スキー連盟と共同開発し、販売開始する。
    SA-N

2000年

Location

第2回全日本カービングスキー選手権大会において上位を独占

  • スキーのニューカテゴリー(カービングレース、スキークロスetc…)に、ECシリーズを開発販売する。
  • 第2回全日本カービングスキー選手権大会において上位を独占、更に10位入賞までに8人が入賞し、EC-R旋風を巻き起こす。

2001年

Location

オガサカスキー使用の2選手が第19回冬季オリンピックソルトレーク大会出場

  • 新機能「F.L.F(Front Lead Function)」システム搭載の代表モデルKS-TRなどを開発し、販売する。
    KS-TR
  • 創業90周年を記念した「90周年記念限定モデル(AN)」を発売する。
    AN
  • SHELLTOP構造を開発し、「Triun、E-Turn、AN」などの機種に採用し、販売する。
    E-Turn FC
  • リレー4×10km種目で力走する堀米光男選手オガサカスキー使用・堀米光男、井佐英徳、2選手が第19回冬季オリンピックソルトレーク大会(米国)ノルディック種目(クロスカントリースキー&バイアスロン)に出場する。

2002年

Location

F.L.F システムを多くの機種に使用

  • F.L.F(Front Lead Function)システムを、JUNIOR・OKを除く全ての機種に採用。
  • 新機能「F.L.F」搭載の代表モデルKS-TRなどを開発し、販売する。
  • Keo’sシリーズにAT(シェルトップ構造)及びFT(ツインキール構造)を採用、発売開始。
  • YOIDON(ヨーイドン)を初心者向けとして開発し、6月より追加発売開始する。
    YŌIDON
  • Novemberスノーボードを開発し、発売開始する。
    November at

2003年

Location

新機能「AC(アキュムレーター)」を開発

  • 新機能「AC(アキュムレーター)」を開発、Triun、Keo’s、Unityに搭載し、販売する。
  • 不整地用モデルとして「こぶ王」を開発し、販売する。
    こぶ王

2004年

Location

新ジャンルスキーの開発

  • 多様化するスキーヤーのニーズに応えて、新ジャンルのスキーを開発し、E-TURN SX&MXを発売開始する。
  • Keo’s CH(チャレンジ)モデルを発売する。
  • VintageモデルLongcruiseを開発し、発売する。
    Longcruise

2005年

Location

トリノオリンピック・パラリンピックにVectorglide(ベクターグライド)、小賀坂スキー使用選手が出場

  • 2006トリノオリンピックにVectorglide(ベクターグライド)のボードを使用し出場した藤森由香選手が見事7位に入賞する。
  • 2006トリノパラリンピックで東海将彦選手が立位クラスの大回転種目において、見事『銀メダル』を獲得する。
    東海選手使用モデル:Triun-G
  • 第43回全日本スキー技術選手権大会(苗場会場)において21年ぶりに男子総合で表彰台を独占する。(1位佐藤久哉選手、2位片山秀斗選手、3位丸山貴雄選手)
  • “三位一体が生み出す高性能”を唱え、KEO’S KS-TE(テクニカル・エキスパート)、UNITY TD-1(トラディッショナル)を発売。

2006年

Location

「オールマイティ・モデル」の製作・発売

  • オールラウンド・モデルを更に昇華させた『オールマイティ・モデル』KS-AMを開発発売する。
    KS-AM

2007年

Location

「オールマイティ・モデル」の進化

  • さらに進化させた、オールマイティ・モデルのKS-EXとKS-SSを開発し、販売する。
    KS-EX

2008年

Location

「TC series」の製作発売

  • 技術選を目指すスキーヤー向けにTechnical Competition(テクニカル コンペティーション)「TC」を開発し、発売する。
    TC-QR

2009年

Location

バンクーバーオリンピックにVectorglide(ベクターグライド)、November(ノベンバー)使用選手が出場

  • 第21回冬季オリンピックバンクーバー大会(カナダ)にスノーボード(ベクターグライド)使用・藤森由香選手がボードクロスに、またスノーボード(November)使用・山岡聡子選手がフリー種目に出場する。
  • 新機能「PPF(パワープラットフォームファンクション)」、「Fulllengthstabilizer(フルレングススタビライザー)」を開発し、TC-LX、TC-SX、KS-GP-01に搭載して販売する。
    TC-SX

2010年

Location

新機能 BMS、FFS を開発、販売

  • 新機能 BMS、FFS を開発、販売を開始する。BMS+FFS は、TC-LE、MEに搭載。BMSは、KS-AX、FX、TC-SE、GS-27、GS-23、G-27、G-23、G、SL に搭載。FFS は、ET-9.0、8.0に搭載。
    TC-ME

2011年

Location

創業100周年を迎える

  • 創業100周年を記念して、昭和初期を連想させるレトロなフォルムに最新のテクノロジーを導入した、200台限定生産の「THE PREMIUM OGASAKA」を開発し、販売する。
    THE PREMIUM OGASAKA
  • 第49回全日本スキー技術選主権大会(於:八方尾根スキー場)において、 丸山貴雄選手が史上初の3連覇を達成。

2012年

Location

F(Fiber)・クロスを開発

  • 新たな強化材、F(Fiber)・クロスを開発。KS-MD、TC-LG、TC-MG、TC-SG、SL、SG-45、SG-40、GS-35、GS-30、GS-27、GS-23に搭載。

2013年

Location

ZTC(ゼロテンションカーボン)を開発

  • 新たな強化材ZTC(ゼロテンションカーボン)を開発。U-AS/1、KS-RS、TC-LZ,MZ,SZ、SG-45,40、GS-35,30、GS-27,23、SLに搭載。
  • UNITYseriesがゲレンデ(オールシチュエーション)オールラウンドモデルに生まれ変わって発売開始。

2014年

Location

多様化するニーズへの対応

  • TRIUN series に マスターズレース対応モデル GS-M 新登場、発売開始。
  • E-TURN seriesに ET-10.8、ET-8.6が新登場、発売開始。
  • AG series(人工芝専用)に AG-SR/Rが新登場、発売開始。

2015年

Location

ターン弧を撓みでコントロールする

  • ツインキール構造のKEO’S series、KS-LS, KS-LDが新登場。
  • TC seriesがモデルチェンジ。TC-LH, TC-MH,TC-SH に商品名も変更。
  • TRIUN seriesがモデルチェンジ。性能とデザインを変更する。

2016年

Location

スキーをもっと楽しく

  • シェルトップ構造のKEO’S series、KEO’S-RX, KS-CX, KS-TXが新登場
  • TC seriesがサンドウィッチ構造に変更になる。TC-LC, TC-MC, TC-SCとして発売。
  • ジュニア技術選向けTC-JL, TC-JS, TC-Jが新登場、発売開始。
  • TRIUN seriesがモデルチェンジ。性能とデザインを変更する。
  • E-TURN seriesは、デザインがリニューアルされ発売開始。

2017年

Location

思いのままに滑れてこそ、滑る本当の楽しさが生まれる

  • ツインキール構造のKEO’S series、KS-RT、KS-CT、KS-TTが新登場。
  • サンドウィッチ構造のTC seriesがモデルチェンジ。TC-LA、TC-MA、TC-SAとして発売される。
  • TRIUN seriesがモデルチェンジ。性能、デザインともに変更される。

2018年

Location

オガサカスキーを使う人々の感動と喜びのために

  • シェルトップ構造のKEO’S series、KS-GP、KS-GX、KS-GZとしてデザインも変更され新登場。
  • サンドウィッチ構造のTC seriesがモデルチェンジ。TC-LS、TC-MS、TC-SSとして発売される。デザインも大幅に変更された。
  • TC-YOUTH として、TC-YL、TC-YS、が新登場、新発売。
  • TRIUN seriesがモデルチェンジ。性能、デザインともに変更される。
  • E-TURN seriesに11.8が新登場。デザインもリニューアルされて発売開始。

2019年

Location

精緻を極める

  • KEO’Sシリーズにミドルターンを得意とするアスリート向けオールラウンドモデル「KS-XX」が新登場、発売開始。
  • ツインキール構造のKEO’Sシリーズがモデルチェンジ、KS-SA、KS-SD、KS-SGとしてデザインも新たに発売される。
  • TCシリーズがモデルチェンジ。TC-LK、TC-MK、TC-SKとして発売、デザインも一新される。ビンディング付きコンプリートモデルが新発売。
  • UNITYシリーズがデザインも新たにモデルチェンジ。ネオフレックスエッジからシームレスエッジに変更される。
  • TRIUN シリーズがモデルチェンジ。性能、デザインともに変更される。SLはサイズレンジ変更。
  • AG(人工芝用)シリーズに金具付きコンプリートモデルが登場、発売開始。
  • スキー用NEWプレートSR585、FM585が新登場、発売開始。
  • 京都連絡所開設

2020年

Location

すべては調和に向かう

  • サンドウィッチ構造のKEO’SシリーズKS-NS、NV、NYが新登場。
  • TCシリーズがモデルチェンジ。TC-LT、TC-MT、TC-STとして発売、デザインも一新される。
  • TRIUN シリーズがモデルチェンジ。性能、デザインともに変更される。
  • 春原優衣選手(小賀坂スキークラブ)が、第58回全日本スキー技術選手権大会(於:苗場スキー場)において女子総合優勝を成し遂げる。

2021年

Location

価値の創出

  • 長い歴史を持つUNITYシリーズがオガサカスキー創業110年を機に、大幅にイメージチェンジをして登場。性能、デザイン共に今の時代にふさわしい新たな楽しみ方のスタンダードモデルとして提案。
    UNITY
  • 新構造のTERRACE®︎(テラス)構造を採用したKEO’SシリーズKS-ES、KS-EV、KS-EYが新登場。
  • KS-XXがデザインのリニューアルと共に、性能も深化し発売。
  • TCシリーズがモデルチェンジ。TC-LU、TC-MU、TC-SUとして発売、デザインも一新される。
  • TRIUNシリーズが1984年の冬季オリンピックサラエボ大会で児玉修選手使用、初代TRIUNのデザインをオマージュし、構成材等の変更によって性能もアップして登場。
  • マウンテンモデルE-TurnシリーズにET-11.5とET-8.5が新登場。デザインもリニューアルされて発売開始。
  • 完全受注生産のプレミアムモデルLong Cruiseがモデルのコンセプトをイメージしたロゴにリニューアル。

2022年

 TOP

資料提供:実業之日本社

瓜生卓三作「飯山のスキー製作のはじまり」より

小賀坂濱太郎

 小賀坂の家は寺院下の愛宕町にある。佛具街のただなかだが、家業は仏壇とは関係がない。孫左衛門、孫兵衛、善兵衛と続く代々の家具職である。名人肌の家系で、作事方として城主の信任が厚かった。濱太郎は善兵衛の息子である。昭和23年、八十八歳で没した。明治を迎えたときには十四、五歳、幼少から父親に教えられ、なんの疑いもなく家具職になった。城がなくなって、彼は公共事業団に備品を納めた。一方では腕の見せ場のために、高級品の製作にも余念がなかった。明治中期から末期にかけて、家具づくりの名人として、濱太郎の名は次第にあがっていった。ことに飯山中学の佐々木校長は濱太郎に目をかけていた。彼は生(き)一本の職人で、採算を度外視しても、いいものをつくるという風であった。中学に納めた演壇は三十余年、毛根ほどの狂いも見せなかったという。

 そして明治45年、その校長からスキー作りを命令されて、濱太郎の運命は大きく開いた。しかし、いかに濱太郎が木工の名人とはいえ、はじめてみるスキーである。しかも短時間に40台もつくれ、という。大変なことになった、と思ったに違いない。翌日から彼は作業所に入りこんで、スキーと取り組んだ。市川(※1:市川達譲氏)がつきっきりで指導した。彼は高田で三間や山善のスキーづくりをつぶさに見学してきた。

 見本とした市川のスキーは、ケヤキの柾目にリリエンフェルトの高級品である。高価なうえに、製作過程もやっかいだし、学校の予算もかぎりがある。生徒用には簡便廉価(かんべんれんか)なものをつくらなければならない。濱太郎は市川と相談して、とりあえず、松材を使うことになった。高田でも安価なスキーは松やクルミである。問題のベンドづけは、高田の方法をまねた。湯気でたわめ、壁に打ったサンにはさんで押し曲げる。松の生木なので、ケヤキに比べれば、曲げやすかった。

 金具は真田ヒモでゆわえる山口式。バッケンは知り合いに丸山常造という鍛冶屋につくらせた。しかし、40台のスキーを揃えるのには並大抵ではない。できたものから3台、5台と納めていった。40台が揃うには幾日かかったであろうか。

 市川が生徒全員を集めて城山で正式授業をはじめたのは、明治45年2月初旬以降となろう。

 とにもかくにも小賀坂は、飯山メーカーの第1号となった。こんなときに、高田連隊のスキー隊が乗りこんできた。レルヒ直伝の高橋亮中尉を指揮官に将校下士などの30名、田口(妙高高原)から斑尾山を越えて飯山に入り、裏山で妙技を披露した。飯山の若者たちには、極めてセンセーショナルな出来事であった。彼らの間には、たちまちスキー熱が盛り上がった。

 スキーの需要は急増した。高田流のベンドづけはどうにもまどろこしい。一度に何台かまとめてつくる方法はないか、と濱太郎は日夜考えた。苦心の末、彼が編み出した方法を、私は息女の中込トモ刀自(とじ)から聞くことができた。濱太郎の六女で、明治35年生まれ、父親が最初にスキーをつくったときは十歳だったことになる。濱太郎は昭和23年2月27日、八十八歳の天寿を全うしたが、家庭的には不幸も多かった。二度の連れ合いに先立たれ、三男六女に恵まれながら、長男は早逝し、次男を戦争で失った。三男の廣治氏が現社長、女は六女のうち存命なのはトモさん一人である。私を妙専寺に案内してくれたのは、戦死した次男重治氏の子息である。トモさんは廣治氏より十三歳年上である。それだけに古い話も知っている。私が行くというので、小賀坂の社長室で待っていてくれた。細面の静かなおばあさんである。か細い声だが、初期の製作工程を熱心に語られた。女がまたげば砥石が割れ、刃物の刃がこぼれる、という濱太郎である。職場は神聖で女人禁制、猫の手も借りたくても女は入れない。母親だけが例外であった。トモさんはおそるおそる仕事場を垣間見、母親の話を聞いて製作の過程を知った、という。まずカマドに水を張った大釜をかけ、薪をくべる。釜の上に大きなセイロをのせる。型どおりに曳いたスキー10台を、そっくりセイロに突っ込んで、4~5時間も蒸しとおす。スキーが入るのだからセイロは2メートルあまり、釜とカマドで1メートル、仕掛けは3メートルもの高さになる。セイロの外側には12段の梯子がかかっていた。蒸し上がると、今度はベンドづけである。濱太郎は大ダライの曲線に目をつけた。湾曲の仕方がいかにもスキーベンドに似ている。彼はタライの外側に湯気でたわめたスキーの先端を大ネジで止めて放置した。タライの外側はスキーだらけである。先端は小気味よく曲がってくれた。しかし、生木のままでは使いものにならない。雪の水気を吸えば、すぐもとに返ってしまう。彼はブリキの大箱を作らせた。その中にベンドづけした生木スキーを並べ、外部から炭火をたいて乾燥させた。一度に10台ができるので、高田方式よりも能率が上がった。仕上げにはラックニスを塗った。

 大正中期になると、小賀坂スキーの名は、本場高田を凌ぐほどになった。昭和天皇が皇太子時代には、濱太郎は宮内省の命を受けて極上のスキーをつくって献上した。濱太郎には一生一代の栄誉であった。

北海道に良質の木材を求めての極地樺太行を聞き、知人が濱太郎に贈った歌

 大正9年には、青森の大湊(現在のむつ市)要港部から150台という大量の注文があった。ケヤキの良材にリリエンフェルト式締め具の高級品である。破格な発注であり大仕事であった。うれしい悲鳴だったに違いない。彼はさらに新型の鉄器を考案した。円筒形の鉄箱の下部にロストルを置き、その下で炭火をたく。上部にベンド型に湾曲したふたを載せる。このふたにベンドを置き、要所を止めて、反対側から重りをつけて引っ張る。鉄器考案の時代ははっきりしないが、大正中期であろうか。鉄器は戦後30年ぐらいまで使われていた、というからずいぶん長い生命があった。用具発達史の上で、重要なものだが、惜しいことに今は1台も残っていない。飯山には濱太郎をはじめとして伊村栄蔵など、家具、建具づくりの名人が多い。スキーの製作は数年ならずして本家の高田に追いついた。追い越した、といってもいい。ただ金具のほうは思うにまかせなかった。山口式、これからヒントを得た“わたし”式という太い針金を靴型に曲げたもの、さらに進んでリリエンフェルトの発案をとった飯山式と、研究に余念がなかったが、本格的なリリエンフェルトにはどうもうまくいかなかった。高級品は高田から持ち込まれた。材は飯山、金具は高田ということになるかもしれない。

 濱太郎はまた飯山中学の先生たちに多くの示唆(しさ)を与えられ、指導もされた。市川達譲、さらに彼の後のスキー部長となった藤沢暲(しょう)三など、中学にはスキーのブレーンに事欠かなかった。ことに地理教師だった藤沢は飯山スキーには忘れられない人物である。選手もメーカーも、彼の恩恵に浴したものは数知れない。野沢の富井宣威(のぶたけ)や佐藤正男らを連れて小樽の第1回全日本選手権(大正12年)に乗り込んだ。彼の地でイタヤ材のスキーを見、帰校してすぐに小賀坂を呼び、北海道イタヤでスキーをつくる事を教えた。そんな事情で道産のイタヤを持ち込んだのは小賀坂が一番古い。濱太郎自身も材の研究にはきわめて熱心で、ケヤキや松ばかりではなく、ブナ、桜、樺(かば)、タモ、ナラ、クルミ、エノキ、のちにはアッシュ、ヒッコリーなど、さまざまなスキーを試作した。樺太を知る市川から、彼の地の優秀な材木のことを聞いて、樺太にまで渡った。当時樺太行きといえば、極地行にも似ていた。別れの歌までくれる人もあった。飯山中学の化学の先生から示唆されて、油びたしのスキーもつくった。水分の多い飯山の雪には、かなりの効果があったようだ。

 本格的な合板スキーをつくったのもおそらく小賀坂であろう。日本の合板はランナー用スキーから始まった。ただ最初の合板製作ということになると多くの問題が残る。高橋昂(あがる)さん(昭和3年サンモリッツ五輪大会代表)は、十勝の郵便夫がはいたという合板スキーを所持しておられる。昭和3年に買い取ったというから、製作はさらに以前にさかのぼるだろう。「東京アルプス商会」のマークが入っているが、どんなメーカーか今となっては分からない。もっとも合板といっても、上部が桜、下が竹の二枚張りで、浅い二本の溝(みぞ)が掘られている。長さは180cm。小賀坂のものはもっと本格的であった。昭和7年、父親の指導で廣治氏が作ったというスキーを見せてもらった。五枚張りの見事なものであった。上からヒッコリー、檜(ひのき)、桜、檜、ヒッコリーと重ねられている。誰もスキー材に使わなかった檜を二枚はさんだところが、新しい考案である。檜は単独では使えないが、合板の一部にすれば軽く丈夫で、ランナー・スキーには絶好だった、という。昭和14~15年ごろでも、和製ランナー用の多くは三枚張り、上下の薄いヒッコリーの間にイタヤなどをはさんだ粗末なもので、ベニヤの俗称で呼ばれていた。昭和7年の五枚張りは画期的なものといえる。そのころ廣治氏はランナーとして活躍していた。スキーはむろん手製の五枚張りであった。新潟の名ランナー「増田真一」や「松橋朝一」などは、高田を通り越して、他県の小賀坂にスキーを注文してきた。小賀坂の信用度がうかがえる。濱太郎はきわめて実直、几帳面な人で、とくに神仏の信仰が厚かった。なんとか世のため、人のためになりたい、と考えた。戦後、父と兄を相次いで失い、にわかに柱となった廣治氏は、飯山郊外の山中に木材を買いにいった。刺(し)を通ずると、山師は、「珍しい名前だ。濱さんの子かい?濱さんの子なら間違いない。いいものを好きなだけ持っていけ。金は、ある時払いの催促なしだ」といってくれた。「親のありがた味をしみじみと感じました」と述懐する。

 トモさんはさまざまな思い出の糸をたぐっていく。彼女自身、少女の頃はスキーのチャンピオンだった。当時の競争は、100 mほどの起伏地を頭に小豆(あずき)の袋をのせて滑り、登って、袋を落とさずにゴールした者が勝つ。ゴム長にスキーをかついで、「やっぱりスキー屋の娘だといわれました」と笑う。トモさんの話では、父親は高田茶屋の御用商人とよく文通していた、という。茶町の名は今はないが、三間や山善の住居のあったところである。初期のころは、やはり高田から知恵を借りていたのであろう。

 「正直で責任感の強い人でした。人との約束はどんなに無理をしてでも果たしました。一本気の職人で、無口で厳しい人でしたが、口やかましいというのではなく、私たちを心からかわいがってくれました」とトモさんは小さくしゃくりあげた。

 25年前に他界し、なお七十になった娘の涙を誘う濱太郎翁である。おやじ冥利につきようというもの。廣治は一本気で、凝り性で、父親そっくりです。廣治氏は昨年ひとり息子を失うという不幸に合った。長く目の前が真っ暗でしたと述懐するが、最古のスキーメーカーとして、濱太郎の築いた信用のもとに、小賀坂を立派に守り立てていくであろう。

※1 市川達譲氏

 当時、飯山市内にある浄土真宗の末寺で妙専寺の住職をしていた。

 昔の一年志願(学校出の荘丁が保釈金を積んで入営し、十ヶ月で将校になる制度)の予備少尉、樺太占領に出兵して中尉に昇進し、飯山中学(現飯山北高校)で、兵式体操の教師をしていた。僧侶、軍人、教師と一人三役の彼は、高田師範の将校と同じに、若者たちの冬の不活発な生活をはがゆく思っていた。そんなとき、高田のスキーを聞いた。なんとか飯山にもスキーを持ち込みたい。翌シーズン、すなわち明治45年1月15日から高田師団主催の甲、乙2種の講習会が開かれた。市川は勇躍して申し込んだ。甲種は現役軍人で3週間、乙種は民間人で10日間、教師の市川は乙種。66名が参加したが、長野県からは彼ひとりであった。講習会場は高田金谷山で、訓練は厳しかった。民間人の多くは落後したが、市川は軍隊精神でがんばり通し、講習生中最優秀の成績で課程を修了した。25日帰宅に際して、2台のスキーを持ち帰った。1台は学校用、1台は自分用であった。ケヤキ材、リリエンフェルト、三間の最高級品だった、と聞くが、現存していない。翌朝登校し、彼は石段下でスキーをつけ、石段を滑走し愛宕町にで、さらに城山を登り、坂を下って学校に行った。飯山のスキーの発祥、1912年(明治45年)1月26日と断定してもいいだろう。彼は当時の校長の佐々木哲哉(てっさい)に、生徒にスキーをさせることを進言した。校長はもとより話に聞くスキーに関心が強かった。市川に高田行きをすすめたほどの人であり、双手(もろて)をあげて賛成した。ただちに学校出入りの家具商小賀坂濱太郎を呼んで40台のスキーをつくることを命じた。

1936年(昭和11年)5月19日(火)付 東京新聞

№21,481号 「スポーツそのころ」より  堀内文次郎中将談

雪具を総動員しレルヒ少佐を邀撃(ようげき)

盲目蛇に怖ぬ度胸

 われわれが雪の高田でテオドール・フォン・レルヒ少佐から正式にオーストリアのスキー術を伝えられたのは明治44年のことだから、ざっと26年になる。レルヒさんは、当時大使館付武官としてわが国に滞在中だったが、何でも「スキー」と称する雪の上を走る履物を上手にコナす大家だとのうわさであった。アルプスを中にしてイタリアと対峙しているオーストリアのスキー連隊で鍛えた腕前“いや足なみかな”は果たしてどんなものかと思ったが、いくらスキーが便利なものであっても、日本だって雪国がない訳じゃないし、きっとカンジキで雪中を歩くのと大差はないものだろう。ひょっとしたら却(かえ)って日本の方に好い道具があるのじゃないかとさえ、われわれは考えていた。時の高田師団長故長岡外史中将の理解も手伝って、レルヒさんが高田58連隊に着任する前、全国から雪具という雪具を全部集め、これでスキーなるものと対抗し、競争してみようと考えた。その時集めた雪具は幾つあったと思う?実に17種類もあったよ。まずこれだけあれば大丈夫、スキーはどれほどいいものか知らんが、何も外国のものを持つまでもないと、タカをくくっているのだから滑稽(こっけい)な次第さ。北海道から来た道具のうちに名は何といったか忘れてしまったが、2尺4方くらいの板の裏にアザラシの皮を貼り付けた下駄のようなものもあったのには感服したが、われわれはこれらの優秀な雪具を使って、日本男児の意気を示さんものと、ひたすらレルヒさんの着任を待っていた。

日本雪具敗北

 さていよいよ高田に到着して持って来たスキーというものを見ると、これには驚いたネ。先端が尖って曲がっている板ッペラのようなものなのだ。初めて見るわれわれの驚きは相当なものだったが、後で聞けば、その以前スウェーデン駐箚(ちゅうさつ)公使杉村虎一氏から参考にと、スウェーデンの軍隊用スキー2組と説明の書物を送って来てあったそうだが、使用法も何も判らないので、そのまま陸軍省の倉庫に放り込んで置いたのだそうな、これが判っていたら、せめてスキーのどんなものかぐらいは知っておくことが出来たであろうに。それは兎に角、確か1月5日にレルヒさんが高田に着き、一両日後スキーをはいて雪の上を滑ってみせるというので、長岡師団長をはじめ、連隊長の我輩も将校一同とともに金谷山の麓に出かけて行った。前にも話したようにスキーとは何程の事やあらんと、内心軽蔑していたのである。いよいよスキーをはいて300~400mの山上に登り、やがて滑り降りて来た。その早いこと、あっという間にわれわれのいる前まで滑って来ちゃった。今でいう直滑降だナ、そうだろう。タカが300~400mの距離なんだからレルヒさんにすれば何でもないことなんだが、吃驚(きっきょう)したのは、われわれだ、もう呆気にとられてボンヤリしてしまった。カンジキや藁靴(わらぐつ)の話などおくびにも出せなくなってしまった。

四十五の初手習

 なるほどスキーというものは非常に威力のあるもので、軍事的にみても十分価値あるものだと判って、いよいよ本格的に研究することになり、レルヒさんの持って来た物を手本に砲兵工廠(こうしょう)へ頼んで二組作ってもらった。オーストリア式のいわゆるリリエンフェルト式締具のついたもので、使用する杖は今とちがって一本だ。金具にはバネがついていて靴がピタリはまり、頑丈な上に前方回転や屈伸が自由で「折敷」(膝射)でも「伏せ」(伏射)でも何でもよく出来る。この點(てん)になると、その後に輸入されたノルウェーのフィットフェルト式締具とは違い、実に具合がいい。杖は長さ2mくらいの先端に金具をつけた竹を使った。この竹杖を50cmも雪の中にさせば、どんな傾斜でも体を支えることが出来た。こんな訳で、レルヒさんから正式にスキーの教えを受けることになり、我輩は各中隊から大隊、能力の優れた中、少尉12人を選んで、講習班を作った。そして我輩も同時に直伝を受けようとその班に加わったが、なにせ当時45歳の初手習いだから、楽な仕事じゃない。二、三ヶ月猛練習をやってから体重を測ってみたら、三貫目近く減っていたからネ。

山野横断スキー

 オーストリア・スキー術の教習は、実に厳格なものであった。ノルウェー流のスキーがスポーツとして発達して来たのに対し、オーストリアのは軍隊の山岳スキーで非常に冒険的なものだから、勢い厳格な規律の下に行なわなければならんのだろう。レルヒさんは、英、仏語も話せたから語学の達者な班員の鶴見宣信大尉(現大佐、全日本スキー連盟評議員)が通訳でスキーの履き方から教わったが、立てばすぐ転ぶといった有様でチョロチョロ滑るまでには二週間ぐらいかかった。レルヒさんは約1年間高田にいて旭川連隊に転じたが、その直前でまず満點といってもいいくらいに上達した者は、鶴見大尉と高橋(亮)中隊長だけだった。相当練習を積んだ後、いよいよ冒険的登山をやって実地訓練を行なうべく、高田から南葉山を越えて妙高山麓へスキー行軍を行なうことになった。たしか明治44年の2月、レルヒさんがリーダーで鶴見大尉以下講習将校12名及び我輩の総勢15名、妙高をめがけて出立した。その日幸か不幸か、途中で猛烈な大吹雪に出くわし、いろいろな危険にも遭ったが、この山野横断は今思い出しても実に壮快で
スキーの実用上、立派な収穫を挙げたものと信じている。レルヒさんがわが国に初めて正式のスキー術を伝えた功績己れを空しうしての熱心な指導は永久に忘れることが出来ない。今日なお故国の首都ウィーンに顕在し、陸軍少将の栄位にあって活動していると聞くのはこの上もない喜びである。

堀内文次郎陸軍中将

 明治18年 陸士、22年 陸大を卒業、日露戦役には大本営付高級副官、日独戦役には旅団長とし
て、青島陥落の事に従った。

 現に支那事変傷病軍人後援会長、帝国軍人後援会顧問、全日本アマチュア拳闘連盟名誉会長など
の職に在る。

 明治44年1月12日、レルヒ少佐より初めてオーストリアスキー術を教授された際、高田師団の連
隊長をしていた。当時45歳で若手将校に交じってスキー術を習った。

1975年(昭和50年)9月掲載記事 長野経営者協会臨時時局情報

第37号のインタビューより  小賀坂廣治翁談

私は「売ることを考える」よりも 常に「買う人の立場」に立って考えて作ってきた

1.一貫した私の経営信条(Credo)

 私の経営信条は、「経営」という言葉を使うほどではないが、「我社はスキーをつくるスキーメーカーである。メーカーとは原材料という物質を組合わせて一つの使用目的のあるものを作り出すことである」という根本的な考え方で、これは流通経路に在る人達との大きな違いであり、ここにこそメーカーと称せられる意義があると思っていますし、また端的に言うならば、職人の生命の息吹きを吹き込むものが我々メーカーに与えられた使命と考えています。つまり、「売ることを考えるより、作ることに全力投球せよ」というのが私の一貫した経営信条です。

2.私の営業信条

 世の中というものは、自己一人が存在するのではなくて、やはり自分たちを可愛がって下さる消費者達の支持なくしてどんな企業も存続は不可能なんだという考え方でやっているわけでして、私共の“営業方針”とは次のものです。

営業方針

  • 常に買う人の立場にたって考えよ。
  • スキーを売るより信用を売れ。
  • 信用の有無は長期間にわたる結果の連続に対する消費者の判定と知れ。
  • 販売の増加を急ぐよりすでに顧客に使用されておるスキーの結果に耳を傾けよ。売ったスキーに対する責任は最後まで続くものと知れ。
  • 必要な時に間に合わぬ最良の品は、必要な時に間に合う最低の品に劣る。
  • 永続する取引は製品の品質のみにあらず相互の人間的信頼の上にのみ成立することを心得よ。
  • 最良の製品は最上の宣伝方法と知れ。

 所詮、メーカーとは販売の手段方法が問題なのではなく、物を作ってそこに価値を期するのがメーカーであり、お客の求めるものを作らなければなりませんし、『スキーは中味がわからないものである』から、外側のみたところよりも内側がいかに良心的によい資材を使って価値あるものを作るかということがメーカーの責任であると考えています。

3.企業経営の真理

 スキーというものは、他のレジャー用品、スポーツ用品と違って、雪という非常に変化のある、しかも日陰と日なたでは雪質も違い、朝、昼、夕方、暖かい日、寒い日などいろいろ違っている状態のデコボコな斜面を一つしかない命と体を使って、足の下につけたスキーを自分の力で操作して楽しみを求めるものですから、絶対に安全でなければなりません。従って、作る技術について絶対に自信のもてるまでに自己を鍛錬し、訓練し、そして高めていかない限り、即ち技術のレベルアップなくしては、不可能です。

4.「販売」に対する考え方

 「販売」というのは、自社からの出荷数がイコール販売数ではなく、小売屋さんの店
頭から最終消費者であるお客さんの手に渡ったことを販売と考えています。
 ですから、我社の生産台数及び売上額というのは、「お客さんの手に何台のスキーが渡ったのか」というのがその年の販売台数になるという考え方をしているわけです。

5.私の企業観

 「企業というのは潰れてはならない」という鉄則は、経営者一人だけの問題ではなく
て、生活基盤が企業に存在しているところのそこに働く従業員とその家族全部の多くの人にかかわる問題です。
 とすれば、一つの企業が倒産するということは、どれだけ多くの人に不幸をもたらすかを考える時、経営者の任務は、どんなことがあっても企業を潰すことなく、どの社員にも安心して仕事に従事できる状態にすることが大事だと思います。
 従業員としての在り方について常に言っていることは、「自分なら喜んで買うだろうと思うものを作れ」といっております。自分がもしお客になってスキーを買うなら、果たして自分が今自分が作っているスキーを選ぶであろうか、自分が作っているならば、その中味は一番よく知っている筈であるから、自分が喜んで買うような品物をつくりなさい、という意味なんです。大きくするとか小さくするとかという問題ではなく、この会社に居れば安全だという安心感と自分のしている仕事が世の中に企業を通じて貢献しているという誇りを従業員に持ってもらうことなのです。

1984年(昭和59年)3月10日 日本経済産業新聞

長野版掲載記事より  小賀坂廣治翁のインタビュー

職人気質で本物追求 新素材も採用、先頭滑走

 「これからは知名度が高い海外有名ブランドがファッション的に売れるのではなく、機能性を重視した“本物”のスキー板が売れる時代」と小賀坂スキーの小賀坂廣治社長は言い切る。
 スキーを楽しむ人が増え、数メーカーのスキーをはき比べる時代の到来とともに「わが社が創業以来追求してきた“本物”のスキーづくりが真価を発揮する」と小賀坂社長は自信を持って語る。
 他メーカーが相次いで量販体制を敷いた高成長期にも、品質重視で急激な拡大を避けてきた同社のいき方が、「回り道のようで結局は、先頭を切って滑り抜けるための最も先端的ないき方になってきた」と胸を張る。

メーカー次々脱落

 小賀坂スキーは明治末期に長野県飯山市で創業、昭和34年に長野市へ本社、工場と
も移転した。創業以来70数年間長野県下でスキー板を製造している。長野県は昔から新潟、北海道とともにスキー板の三大産地と言われてきたが、最近は新潟、北海道とが衰退傾向にあり、スキー板のトップ生産県として年々市場占有率(現在約3割)を高めている。小賀坂スキーはその長野県のスキー板製造業のトップランクにある。「オガサカ」ブランドは、ヤマハ(日本楽器製造)、美津濃、カザマ(カザマスキー)、西沢、スワロー(スワロースキー)とともに国産スキー板の六大ブランドを形成している。47年の関税引き下げを契機に輸入品の攻勢が強まり、慢性的な供給過剰や乱売が続き、生産縮小や転廃業が相次いだ。45年に85社あったメーカーが30社程度に減ったが、国内需要100万台に対し供給は国産100万台、輸入50万台もある。その間、六社で国内全体の約7割を生産、寡占化が進んでいる。

機能性見直し機運

 「ここ1、2年、消費者のスキー板購入姿勢に変化が出ている」と小賀坂社長はみてい
る。40年代後半から国内スキー市場では、海外有名ブランド品がバーゲン攻勢をかけ、消費者も「海外有名ブランドが安く買えるなら」とそれに飛びつく傾向が強まってきた。しかし、「このところ、国産品、なかでも機能性の高いスキーの見直し機運が高まっている」(小賀坂社長)そうだ。その原因は「消費者は実際にはいてみて機能面で優れたものを選別するようになったため」と分析する。スキー業界では輸入品による安売り攻勢に対抗するため、芯ん(しん)材に発砲ウレタン、プラスチックや合板などを用い、量販体制を敷いてコストダウンを図っているメーカーもある。しかし「コスト面では木材芯を使うと採算割れになる子供用スキーをはじめ全機種に厳選した木材芯を使っているし、エッジも板の伸縮に連動する特殊(ネオフレックス)エッジを使っている」と機能を重視している。

時代への対応に自信

 こうした昔ながらの“職人気質”による製品づくりを図る一方、「シリコンカーバイド、ケブラー繊維などをスキー板の新素材として業界で真っ先に導入したものも当社」と常に新技術にも目を向けている。「スキーをする人は年齢、技量、体力など多種多様。それぞれに最も合う製品をつくるためにも新素材の研究は欠かせない」。
 「現在いまでも市場に出せる新素材が二種類ある」と時代への対応にも準備万全。ただ「すでに20近い機種を出しており新素材の製品を出すと流通段階が混乱するので、登場のタイミングを図っている」そうだ。
 「スキー指導員の間に愛好者が多く、全日本基礎スキー選手権の上位入賞者の大半が当社製のスキー板を使用している」と小賀坂社長は自社製品に絶対の自信を持つ。小賀坂スキーはこの“機能性の良さ”を武器に「本物が選別される時代」の先頭を行く考えだ。